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社長プロフィール

   氏名       藤井 良裕
   生年月日    昭和 42年 6月12日 現在39歳  ふたご座
   血液型      A型

昭和42年6月12日 誕生  大阪府寝屋川市で生まれる
赤ちゃんの頃のことは、わかりません。3歳ぐらいの時は、あまり物を食べず豆腐ばかり食べていたそうです。


幼稚園 寝屋川市 恵愛幼稚園に入学
この頃かなりのヤンチャもので帰りに列に並ぶのが嫌で
友達と2人で幼稚園を脱走し大騒ぎになる。
親は幼稚園に謝りにいく。

1年生 寝屋川市立 田井小学校に入学

2年生 走るのは一番クラスで速かった。
剣道を習い始める
とにかく毎日ドッジボールばかりしていた。ドッジボールが楽しくてしかたなかった。
田井小学校の校庭は狭く、ドッジボールの陣地のとりあいで朝早くから学校に行ッテいた。

3年生 田井小学校の近所は下町で立ち飲み屋の息子がいた
そいつと仲良くなり夕方いつも 串かつのイモをもらいに行って大人にまじり「イモ」を注文して食べていた。
それに味をしめ母にこずかいを30円もらいあちこちの立ち飲み屋で今度は、「たこ」なんかを注文するようになっていた。

4年生 父の実家である池田に引越してくる。
池田私立緑丘小学校 に転校立ち飲み屋は近くになく、駄菓子屋もない、楽しくなかった。
緑丘小の校庭は、広すぎてドッチボールの陣地の取り合いにもならない。田舎に来たなぁと思った。こんなところ嫌だといっていた。 しかし、空気がいいせいかアレルギー性鼻炎が治った。
そして、あっちの学校では走るのが速かったが、こちらに来て1番は取れなかった。
今から思えばやはり田舎の子のほうが、体力が、あったのであろう。
僕は、転校してきて初日からけんかばかりしていた。けんかには、自身があったが俺が、勝つけんかでも1対1が2対1、3対1になり結局おれが負けていた。なかなか、仲良くなれないでいたが、先生がそれを見て何とかしないと思ってくれたのだろう、ある日放課後、野球がある事を知り、ある友達に「藤井さそったれ」と声をかけてくれた。
俺は、うれしかった 野球が、好きだったし得意だった。野球をしているうちに皆とすぐに仲良くなれた、野球の後、みんなでアイスクリームを買いに行ったが、俺だけお金を持っていなかった。その時、トヨキがアイスクリームをおごってくれた。
うれしかった、トヨキとは1番に友達になり今でも友達である。
今でも、その日の事を思い出す。
トヨキありがとう。
その時の中川先生にも感謝しています。

   
5年生 この頃からスイミングに行きだす。泳ぐ事の楽しさを覚え、水泳日本を目指す池田の町にもなじみ、皆でよく山に基地を作りに行く。川西の鶯の森でもまだ泳げた。

(一番前の赤い帽子)
6年生 「よっせん」 吉田先生という先生が、担任であった男みたいな先生であったがやさしい先生だった。このクラスは、最高だった。 楽しかった。
卒業式で泣いてしまった。

中学生 相変わらずスイミングに毎日通っていた、クラブは水泳部だが、クラブは試合しか行かずスイミングばかりであった。
勉強は、ほとんどしていなかった。3年生になりようやく勉強をしなくてはと思い出す。
この頃からバイクに興味を持ち出す。  ホンダ CBX400F がほしい。

高校生 府立渋谷高校入学  定員割れであった。実力でないかも?
先輩から強く水泳部に誘われたが、断りバレー部に入った。
単純に背が高くなりたかったから・・・入部し172センチの僕は、アタックを打たしてくれない。レシーバー要員にまわされた。僕は、アタックを打ちたいと頼んでは、見たがだめだった。3年生で170センチでアタックを打っていた先輩がいたのになぜですか?とひつこく食い下がったがだめであった。
夏前であった。僕は、クラブに出なくなった。 何度もクラブをやめます。と言ったが、やめさせてもらえず、先輩からひつこくクラブに出て来いと誘いがあった、僕は、逃げた。あるとき先輩らに捕まり体育館で正座をさせられ中途半端な態度は、いけないと言われ部員に土下座して謝れと言われた僕は、謝らなかった。そしたら先輩連中にリンチをうけた。苦い経験である。
だが、楽しい夏休み前だったのでせいせいした。つらい、合宿にも行かなくていいしやりたいことも思いっきりできる。
僕は、バイクを買うために新聞配達をはじめた。そして昼は、そば屋でバイトした。1年の夏休みは、友人と2人で自転車で10日間かけて琵琶湖を1周した。
ほとんど、野宿でいろいろな友達と知り合えた。初めての冒険だった。
念願のバイクは、約半年バイトをしキャッシュで中古を買った。CBX400Fである。当時「ハイティーンブギ」に使われたバイクだ。今は、プレミアがつき80万ぐらいしている。当時45万で購入したバイクを買ってから、いろいろなところにツーリングに出かけた。
信州はほとんど回ったと思う。バイクを買ったが部品やタイヤサーキットやらで常にバイトがやめられなかった。
高校も3年になりそろそろ就職か大学かというところにきて僕は、白バイ警官になりたかった。大阪府警を受けたが、勉強もろくにしていない俺が、受かるわけがなかった。
それより先に卒業できるかどうかが危ないと担任の先生に言われ必死にレポートと再試験にのぞんだ。
やっとのことで卒業ができた。
進路は、安易に選んだ。デザイナーだ。昔から美術はよかった、少し自身があった。
かっこいいし、当たればお金儲けが、できるだろうと思った。デザイン学校に入ることにした。

デザイン学校 創造社デザイン専門学校入学
1年目は、ベーシックコースで2年目は、選択できることになっていた。
だが、入ってすぐに気がついた。「レベルが高すぎる」俺は、えらいいところに入ったと思った。
皆、すごくうまい、絵やデッサン、デザイン画、しかも毎日毎日課題が多くバイトなどしている暇がないぐらいだ。
皆、飯を食うよりデザインが、好きなやつばかりであった。酒を飲んだり、女の子を難破したり、ディスコに行ったりするよりデザインが好きなオタクの集まりだった。やめたいと思ったが親に中途半端なことは、言えずそれなりにこなした。でも「デザインでは、こいつらには、勝つ自身が、ない」とさとりデザイナーの道は、あきらめた。

友達も仲のいいのが、2人できた。それ以外は、オタクだった。芦田と飯田だ。3人でよく遊んだ。
芦田は、今デザイン業界で東京で事務所を開いている。飯田は、内装の会社を経営している。この3人は、同期50人のなかでも最低ランクの3人であった。1年目の終わりにやめようと思っていたが、友人の父が、インテリアデザイナーですごく儲けていると言うことを聞いた。
その父の話を聞いたら本当にかなり儲けているらしい。話を聞いて僕にもできそうであった。
学校をもう1年行くことに決め、2年目は、迷わずインテリアデザイナー科に入った。やはりそこでも劣等性であったが、就職は1番早く決まった。クラスで成績が一番よかったI君は、オタクだったためだろう最後の最後まで就職が決まらず苦労していた。

(左から、飯田、芦田、藤井)

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